武田勝頼は岡崎城を陥れた!信長の評価も一転?築山殿(瀬名)との関係は?

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武田勝頼は最強だった⁉

大河ドラマ「どうする家康」で
眞栄田郷敦さんが演じる武田勝頼が
ネット上でも話題で
とても気になりました。

そこで今回は、

  • 武田勝頼が岡崎城を制圧しようとしていたこと
  • 武田勝頼への信長の評価も一転したこと
  • 築山殿(瀬名)との関係について

お届けします!

武田勝頼は岡崎城を陥れた!

武田勝頼(たけだ・かつより)は、
甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名。

大河ドラマ「どうする家康」では
眞栄田郷敦さんが演じましたね。

かっこよかったですね~

 

父はあの武田信玄。

 

阿部信玄もかっこよかったですね。

「家康よ、お前は東大へ行け!」

そんな感じでしょうか。

母は諏訪領主(諏訪頼重)の娘・諏訪御料人。

 

武田勝頼は

戦国時代から安土桃山時代を
駆け抜けるように生きた人物です。

諏訪氏と武田氏両方の名跡を継ぎ、
長篠の戦いで織田軍&徳川軍と戦い、
仲間に裏切られて最後を迎えました。

 

1574年(天正3年)6月

武田勝頼は遠江の高天神城を
落として東遠江を平定。

翌1575年4月には三河へと進軍します。

信玄亡き後も、武田勝頼の
猛攻は止まりません。

目的は岡崎城を制圧することに
あったといわれています。

岡崎城には家康の長男、松平信康と
家康の正室、築山殿(瀬名)がいます。

 

武田勝頼は

その岡崎城を陥れたのです。

 

松平信康の家臣・大岡弥四郎
(おおおか・やしろう)を

調略し味方につけた勝頼は、
岡崎城を開門させて占領する計画を実行。

弥四郎が家康が岡崎城を来訪したと
虚偽の情報を流して開門させ、

武田軍を城内に導き、
城主の信康を自害に追い込み、
城内の家臣らを武田氏に服属させる。

家康についている家臣たちは、
岡崎に妻子を置いているので、

これを人質として確保できれば、
ほとんどが武田に降参し、
家康から離叛することは確実。

そのうえで、家康やその家臣を
討ち取るというものでした。

この事件の経緯は、
『三河物語』の記述が著名です。

『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期、旗本の大久保忠教の著作。

歴史的には「大岡弥四郎事件」

『大河ドラマどうする家康』では
「岡崎クーデター」として
描かれていますね。

謀反の参画者には、
松平新右衛門・小谷甚左衛門
倉地平左衛門・山田重英
などがいました。

しかし山田重英は、弥四郎の誘いに
乗ろうとしましたが
決意を翻し、通報したことで
謀反が発覚します。

『どうする家康』では、

瀬名(有村架純さん)や
亀(當真あみさん)が、
負傷した兵の手当てに走り回り、
そんな姿に心打たれ
決意を翻した演出がされていました。

 

家康は弥四郎の謀反を察知しており、
あらかじめ調査を行っていた
とも伝わっています。

どちらにしても、計画はバレバレ
だったようですね。

大岡弥四郎は捕縛され、
岡崎城下と浜松城下を
引き回しにされた上、

鋸挽きという残酷な刑に処せられました。

 

この岡崎クーデター、大岡弥四郎事件は

1579年の『築山殿事件』
引き金となります。

築山殿事件
徳川家康が築山殿を暗殺、信康を自害させた事件

岡崎城制圧計画は失敗に終わりましたが、

その後、勝頼は長篠城を
奪還する作戦に切り替えます。

そして、勝頼は長篠の戦いで
大敗を喫することになります。

武田勝頼への信長の評価も一転??

信玄が亡くなった直後、信長は

「信玄の後は続くまい」と述べていました。

信玄はすごかったけど、
息子は大したことないだろう。

そんな感じでしょうか。

しかし、その評価を一転させ、
上杉謙信に書状を送っています。

「四郎(勝頼)は若輩ながら信玄の掟を守り表裏を心得た油断ならぬ敵である」

「なんだよ、思ったより強いじゃん」

「下手するとやられるぞ」

そう思ったわけですね。

 

『どうする家康』でも岡田・信長が
「恐るべき才覚と俺は見る」と警戒。

才覚にあふれた猛者として描かれています。

 

武田勝頼最強説にネットも沸きました。

「勝頼公はちゃんと有能で良いなあと思います」「過去かつてない程に勝頼が優秀すぎる」「今年の勝頼は見るからに戦闘力高くて、負けそうにない」「最近勝頼が優秀に描かれてて時代が変わった」「勝頼がちゃんと有能に描かれてるの素晴らしい」「ボンクラに描写される事多いけど勝頼って実績見ると有能」「勝頼様有能説はすきだ」と歓迎する投稿が相次いでいる。
引用元:Yahoo!ニュース

武田勝頼は武田氏を滅ぼした無能な武将

武田勝頼は有能な武将だったが
父・信玄の残した負債に
押しつぶされてしまった不運な武将。

そのように評価も割れています。

今回のような武田勝頼最強説に立つと、
長篠の戦いも勝利してしまいそうですね。

 

勝頼は、名将とされた信玄の死によって
重責を背負うことになり、

たくさんの迷いと葛藤、
プレッシャーや恐怖の
連続だったでしょうね。

武田勝頼と築山殿(瀬名)との関係は?

武田勝頼と築山殿(瀬名)との関係は
どうだったのでしょうか。

『岡崎東泉記』『石川正西聞見集』によると
築山殿(瀬名)もこの謀反計画に
加担していたとのこと。

計画段階で武田勝頼と内通

していたことになります。

当時、甲斐国の歩き巫女が
岡崎領に大勢来ていて、
それにつけ込んで勝頼が巫女を懐柔して
築山殿(瀬名)に取り入らせ、

五徳姫を勝頼の味方にすれば
築山殿(瀬名)を勝頼の妻とし

信康を勝頼の嫡男にして天下を譲り受ける

という託宣を巫女に述べさせたそうです。

五徳姫
織田信長の娘で松平信康の正室

さらに築山殿(瀬名)の屋敷に出入りしていた
西慶という唐人医をこの談合に巻き込み、
弥四郎らを大将分として
勝頼から所領を与える判物が出されたとしています。

大岡弥四郎事件前には
武田勝頼と内通していた
ことになりますね。

 

『どうする家康』では

大岡弥四郎事件後
武田勝頼と内通

大岡弥四郎らが武田と内通して
謀反を画策しましたが
築山殿(瀬名)が阻止しました。

しかし、どこか意を決した瀬名は、
武田家臣で謀反工作などを手がけてきた
歩き巫女千代を築山に招いて密会。

『お友達になりましょう』と
呼びかけていました。

 

やがて内通がバレて・・・

 

いずれにせよ、

その裏には、簡単ではない様々なドラマが、
大人の事情、嫁姑問題、親子問題、
夫婦の問題・・・

複雑にからんで内通に結びついて、きっと
あの「築山殿事件」に
つながっていったんですね。

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まとめ

今回は

  • 武田勝頼が岡崎城を制圧しようとしていたこと
  • 武田勝頼への信長の評価も一転したこと
  • 築山殿(瀬名)との関係について

お届けしました。

今までのイメージとは違う
武田勝頼に出会えた気がしました。

ご覧いただきありがとうございました。

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